ある日の僕の思い


彼女と過ごした時間は少し曖昧で、
とても長いようでとても短かかった。
彼女と出会って一年もたたずに、
彼女はガンと診断されました。

僕と彼女が過ごした時間の半分以上は、
病室でした。
それでもあの時の僕は、
彼女のそばにいることが辛いと感じる事はなく、
彼女の幸せに貢献する事が
僕の幸せだと思っていました。

彼女は時々、
何度か体の中に住む黒い塊に心を支配され、
家族や僕に辛い心をぶつけ、
愛を拒絶し信じなくなっていました。
僕はそんな彼女に、
久しぶりに外の空気を吸ってほしくて屋上へと誘った事がありました。

あの日、彼女を屋上へ手を引き連れて行くと、
彼女は急に泣き出してしまいました。
僕は初めて見る彼女の顔に動揺しました。
そして、空を見上げた彼女は、
「ごめんね、ごめんね」
といいながら、しきりに謝っていました。

彼女は、空があまりにも大きくて深くて、
自分が飲み込まれてしまいそうな気がして怖いと言いました。
僕はどうしていいのか分からず、
ただしがみつく彼女を抱きしめることしか出来ませんでした。
僕は、僕たちの上に広がる優しい空の青が、
彼女の目にも優しく映っていると思っていました。
けれど、僕たちの目は違う所についていて、
彼女の目に映る景色は僕とは違っていました。

僕は、ゆっくり息を吐き、
泣き出しそうになる自分を抑えました。
そして、
「大丈夫ですか?」
と彼女に聞きました。

あの時僕がそう聞いたのは、
彼女に大丈夫だと答えて欲しかったから。

けれど彼女は泣きながら
「ごめんね」
と繰り返すだけでした。

僕はあの時初めて、
彼女の中に変化を感じました。
そして、その時もう一度見上げた空の景色が、
なんだかニセモノのように感じました。

その日から半年ほど経ち、
僕は日に日に痩せて行く彼女の顔を見るのが辛くなり、
彼女に会いに行く日が減っていきました。

彼女と会うと、
彼女に死が近づいているのが感じられて、
笑顔を保つことが出来ずに、
部屋を飛び出しては泣いてしまうからでした。

僕は彼女の力になりたかった。
彼女からもらったものと同じものを返したいと思っていました。

けれど世の中には、
僕の力ではどうにもならないものばかりが多すぎる。

自分の無力さを思い知らされるだけでした。

今でも僕は、彼女と過ごせる残り少ない時間を無駄にしてしまったとあの時のことを後悔します。
そして、その思いと一緒に、強く僕の心に浮かんでくるのは、
彼女との最後の会話をした病室の記憶です。

あの日僕は、
二週間ぶりに彼女の病院へ見舞いに行きました。
冷たい階段の色に、
逃げ出してしまいたくなる気持ちを抑えて、
重く感じる足を無視し彼女の居る病室へ向かいました。
病室で僕の顔を見た彼女は、
目に涙を浮かべ痩せた顔で笑っていました。

襲ってくる胸の震えに堪え、
僕は彼女に笑って見せました。
あの時、彼女を元気付ける言葉をあまり持っていなかった僕は、
口数少なくただ彼女の側で、
彼女の手を握ってあげることしか出来ませんでした…。

そしてそれからちょうど十二時間後、
僕はバイブ音で目が覚め、
手を伸ばした先にあった携帯電話からは、
彼女の死が告げられました。
その直後、僕は重力に逆らえずベッドに押し付けられました。
彼女の死に、僕は何の実感も無く、
ただ唖然としていました。

彼女はたしかに存在していて、
声も聞くことが出来た。
なのにもう写真でしか顔を見ることが出来なくなってしまったなんて、
僕にはまだ理解できていませんでした。
それなのに、
僕は電話の相手に返事をしたくても声が出なくなっていました。
壊れた涙腺と、フラッシュバックする過去の映像に、
息がうまく継げなくなっていました。

過ぎた時間を戻す力を僕は持っていないから、
もしもの話をしても意味がないのは分かっています。

それでも、伝えたい思いも、未来の話も、
彼女ともっともっと話したいことがたくさんあった。
あの日が最後だと知っていたらと思わずにはいられない。
彼女の死に覚悟をしていましたが、
こんなに早く別れが来るとは思っていなかった。
悔やむ気持ちも、やるせない思いも、
大切な人の死に直面した人は皆感じてしまうのでしょうか。
後悔という字の意味を、
心臓に穴が開いたような痛みとともに思い知らされました。
 
 
 


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後悔を自覚したのは、
あのときが初めてでした。